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SHAHEEN'S OF HONOLULU

当時のハワイにはアロハシャツメーカーがいくつもあったが、その多くが東洋系であった。その中で、戦後に設立された後発の会社でありながら、東洋系ではなく、もっとも成功したメーカーと言えるのが、このアルフレッド・シャヒーン社だ。この会社は、レバノン系移民ジョージ・A・シャヒーンが1938年にホノルルで開いた衣料工場、ジョージ・A・シャヒーン社を息子のアルフレッド・シャヒーンが引き継いで、’48年に株式会社化したものだ。アルフレッドは、’22年にニュージャージーで衣料品関係の事業を営む家庭にうまれる。祖父は家族経営のテキスタイルと衣料品の会社を設立し、その後、父のジョージは3つの繊維工場と小売チェーン店を展開した。第二次世界大戦後にはパイロットとして従軍し、その後はホイッティアー・カレッジに進学。卒業後に家業を継ぐためにハワイに来た。事業に参加したアルフレッドは、シルクのパジャマなどを観光客や米軍の兵士たちに島のお土産として販売していた流れを理解し、それらを引き継ぐ道を探った。’48年にはアロハシャツの製造を始め、縫製担当として雇った4人の従業員はすべて母親のメアリーが指導した。カメハメハやカハラなど、すでに軌道に乗り始めていた大手のシャツメーカーを参考に、生地を輸入して自社工場で裁断と縫製をおこなったのである。同年7月には直営店ハウス・オブ・シャヒーンズをオープン。事業を軌道に乗せるには必須条件と考えていた、タイムリーな生地の調達を可能にするため、ハワイでは初めてのプリント工場を設立した。 大胆かつ無謀とも思われたシャヒーンのプリント工場、サーフ・アンド・サンド・ハンド・プリント社は、船の遅れやストライキなどを考慮して多くの在庫を持ち、発注中や移送中になっている多くの生地に振り回されるという問題の解決策であった。しかし、未経験なうえに、自作の機械を使っての作業は困難を極めたが、そこへ、プリントのエキスパート、ドクター・エドモンド・ラッツからのアドバイスが届いたのだ。その後も試行錯誤を繰り返し、4年後の’52年に本格的な操業を開始した。自前のプリントによる独創的な柄と雑誌「VOGUE」などへの広告を利用した売り出し方により、高い人気を得て急成長を遂げた。’53年頃からはマキナニーなどの高級店でも強く打ち出され、それまでハイファッションなデザインを特徴とするレディースのデザイナーズブランドとして人気だったが、以降は大胆なメンズ向けのアロハシャツも注目された。’55年にはアルフレッド・シャヒーン社に社名を変更。翌年に工場併設の新社屋を建設した。一階がプリント工場、二階が縫製工場で、そこには長さ60ヤードのプリンティング台があり、一日に4000ヤードものプリントをしていた。