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KAHALA

フランスからカリフォルニアに移住して、役者をしていたジョルジュ・ブランジェは、映画「RoughRiders」でデューク・カハナモクと出会い、ボディーサーフィンを教わった。1928年に初めてハワイを訪れ、不思議と引き寄せられたワイキキビーチで偶然にもデュークと再会する。デュークに紹介された名高いビーチクラブHuiNaluのビーチボーイ達にも受け入れられ、その後もたびたびハワイを訪れる。長期滞在を重ねるうちに移住を決意し、’35年に同じく本土から来たニール・ミラーと高級紳士服店ミラー・ブランジェをビショップ・ストリートにオープン。そこでは、オーダーメイドのスーツを作っていたが、生地の到着がストライキで滞るようになると、日本からの生地やイースト・インディア・ストアのバティック、その他にも和柄のアロハシャツなども扱うようになっていった。一方、ハリウッドで衣類の卸売りとジムのマッサージ師をしていたナサニエル・ノーフリートは、親友であったジョン・ウェインらの誘いもあってハワイに行き、そのままハワイに居ついてしまう。そして、本土に戻ったミラーの後任としてブランジェの店で働くようになった。主にシャツや水着をつくり、安定した経営をしていたが、さらに多くのアイテムを製作するため、’36年に二人は店舗を売却し、ノース・キング・ストリートでブランフリート・スポーツウェアを設立。スタート時はウォングス・プロダクツに生産を委託し、デューク・カハナモクとカハラの2ブランドを展開していた。のちにベティ・グレゴリーというデザイナーを擁してデザインから仕上げまで一貫生産するようになる。’39年にはカピオラニ・ブルバード1236番地に工場を新設して移転し、45人の従業員を抱えるまでに成長した。製品は主にホノルルの高級店とアメリカ本土で販売されており、素材においても、得意とするコットンだけでなく日本製のシルクを使ったり、通常はコットン使いが多かったタパ柄にレーヨン生地を使うなど他のブランドにない斬新な発想のアロハシャツを数多く生み出した。「カハラ」は当初レディース・スポーツウェアのブランド名として使われていたが、同社が’43年にデューク・カハナモク・ブランドの使用権を手放した後は、メンズアイテムの展開もはじめる。そして’50年頃になると社名もカハラ・スポーツウェア社に変更。’60年には85台の機械を駆使し、年間の売り上げは100万ドル以上になっていた。また翌年には、一度手放したデューク・カハナモク・ブランドの商標を再び取得し、シャツの生産を始めたのである。