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DUKE KAHANAMOKU

1937年、デュークはブランフリート・スポーツウェア社とアパレルアイテムに関しての契約を結びました。ブランフリート社とは、ジョージ・ブランジアとナット・ノーフリートが、1936年に創業したスポーツウェアを専門とする会社で、後のカハラ社である。’37年、デュークが結んだ同社との契約とは、販売するシャツや水着にデュークデザインであることを5年間に渡り、ラベルに記載するのがその内容である。シャツが1ダース売れてもデュークが受け取ったロイヤリティーは、わずか35セントだった。’40年代には戦時規制によりシャツの輸出が制限されるなどの障壁もあり、’49年にはニューヨークのシスコ・カジュアル社へブランドの権利が譲渡された。デュークは、その年の11月から「デューク・カハナモク・メイド・バイ・シスコ」のラベルで販売されるシャツをプロモーションする契約を結び、自らが広告塔となってPRのために、ニューヨークやロサンゼルスなど全米中の大都市をまわった。この契約により、デュークは自身の写真入りのラベルが付いた服のロイヤリティー3.5%を12年間受け取る。キングカメハメハの末裔といわれ、競泳のオリンピック金メダリスト、映画スター、サーフィンの伝道師など輝かしい経歴を持つ人物であった、デュークの影響力は絶大で、その年に全米中でハワイアンファッションが大流行する。また翌年にはアロハシャツなどを仕入れたがっていた、カリフォルニアの多くのバイヤーがハワイを訪れた。さらに、’54年の映画「地上より永遠に」でモンゴメリー・クリフトがデュークのアロハを着て登場し、さらに注目されるようになる。こうしてデューク・ブランドのアロハシャツは、それまでローカルな存在だったハワイアンファッションをアメリカ全土で注目されるほどのアイテムにまで押し上げた立役者でもあった。その後、デュークは、’61年からカハラ社と再契約。’70年頃からはカタリナ社がブランドを継承している。