ブランド

MUSA-SHIYA SHOTEN

ハワイアンシャツのルーツをたどっていく中で、欠かせないブランドの一つ、「ムサシヤ」。アロハシャツという言葉を広告の中で初めて使い、お土産物でしかなかったシャツがハワイを代表する商材にまで成長するきっかけを作ったブランドである。1885年2月8日に最初の官約移民940人の一人としてハワイに渡った東京出身のシャツ職人、宮本長太郎によって1904年頃に創設。店名の由来に関しては、東京出身であったことからと言われているが、宮本武蔵からきているのではないかという説などもあり、確かなところはわからない。ホノルルのノースキング330番地に、反物を置きオーダーメイドでシャツを仕立てる店としてオープンした「ムサシヤ」。当時の観光ガイドなどにも広告を出し、アメリカ本土からの観光客にも流行していた、和柄のオーダーメイドシャツ店の中で、特に有名な店となった。1915年に長太郎が他界すると、日本の学校へ行くために帰国していた長男の孝一郎はハワイへ呼び戻されて店を継ぎ、店名を「ムサシヤ・ショーテン」とし、日本語名を武蔵屋呉服店と改めた。孝一郎は店舗での事業拡大を考え、イギリスの大手テキスタイル会社に生地の発注をしたが、第一次世界大戦の影響で注文した生地が届かず、再度の発注を繰り返した。その後、重複してオーダーされた分の生地が一度に届いてしまうこととなる。突如、山積みになったブロードクロスに囲まれた孝一郎であったが、すぐさま腕のいい職人を捜しシャツを作り始めた。膨大な数を販売するため、チャールズ・R・フレイジャーの広告事務所へ相談に行き、地元の大手新聞ホノルル・スターブルティン紙に広告を出すことをきめる。日本育ちの孝一郎の意味はわかるが文法が間違った、滑稽な英語の不思議なインパクトと下駄を履いた笑顔の日本人のイラストが与えるインパクトをフレイジャーは見抜いていたのだ。又、店名も「ムサシヤ・ザ・シャツ・メーカー」という通称を使うように勧めた。店は一躍有名になり、オーダーはアメリカ本土だけではなく、南アフリカやアルゼンチンなど、世界中から舞い込み、ハリウッドの大物達がミヤモトの仕立てた絹製のシャツやパジャマやローブなどを注文していくほどになっていった。1930年代に入り、株式会社化しさらなる飛躍を目指したが、世界恐慌の影響もあり、1934年に輸入商社の藤井順一商店に店を売却。自らは、同じホノルルのサウスキングに移り、「ムサシヤ・ザ・シャツメーカー」を設立した。買い取った藤井順一商店は「ムサシヤ・ショーテン・リミテッド」と再び改名し、同じ場所で営業を継続。1935年にホノルル・アドバタイザー紙に出した広告で、「“アロハ”シャツ―綺麗な仕立て、美しいデザイン、晴れやかな色。既製品と注文品…95セントより」と打った。これがアロハシャツという言葉が文字として残された最古のものとされている。このように、ムサシヤはハワイアンシャツ文化の基礎を作り上げたブランドの代表格であり、当時も中心的存在であった。